竜を刻んだ銀貨と、紙で支払われた戦費
直径三十八・六ミリの銀貨に刻まれた竜は、英国でも高く評価されました。しかし、この銀貨が生まれた時代、国内では士族の禄が公債に変わり、内戦の費用は紙幣で支払われました。

文明開化の実験場
大阪、淀川のほとりの川崎村に、煉瓦の工場が建ちました。造幣寮です。明治四年二月に銀貨を作りはじめ、四月四日に創業の式を挙げました。
機械は、閉じられた香港の造幣局から買い取ったものです。首長に招かれたイギリス人、トーマス・ウィリアム・キンダーの月俸は千四十五円。太政大臣三条実美の八百円を上回りました。この年、構内にともったガス灯は、日本で最初の西洋式のガス灯でした。
働く者は髷を落とし、洋服を着ることを義務づけられます。ここは、文明開化の実験場だったのです。竜の図を鋼に彫ったのは、金工師の加納夏雄だと伝わります。この竜図は英国側でも高く評価されました。
公債に変わった禄
新しい時代の陰で、古い制度が消えていきました。廃藩置県のあと、政府の帳簿でいちばん重かったのは、華族と士族に払う禄でした。歳出の三割を超え、歳入の三割七分を占めます。
明治九年八月五日、金禄公債証書発行条例が出されます。禄の五年から十四年分を公債で一度に渡し、三十年のうちに償うというものでした。
しかし、その利子だけでは暮らせません。七分利の公債から入る一日の利子は、東京の労働者のいちばん低い賃金の三分の一にしかなりませんでした。だから公債は売られます。明治十五年の鳥取県では、士族の九割がすでに手放していたといいます。武士の禄が、銀行の資本に姿を変えたのです。
紙でまかなわれた戦争
明治十年二月、西南戦争が始まります。
政府軍は五万八千五百五十八人、船は十九隻。軍費は四千百五十六万円あまりと、圭室諦成は算えました。資料によってこの数字はかなり違うと、そこにも断ってあります。同じ頃の政府の税収が四千八百万円ほど。その九割近くを、半年あまりの内戦が飲み込みました。
財源は増税ではなく、紙でした。政府紙幣と国立銀行紙幣が刷り増され、物価が跳ね上がります。そして、その紙を政府に貸したのが、旧い大名たち、華族の出資で作られた第十五国立銀行でした。紙で戦費を払うと決めたのは、政府のほうです。
銀貨と金貨の時代
この竜を刻んだ一圓銀貨は、対外貿易用として発行されました。品位は銀九十パーセント、量目二十六・九六グラムです。台湾・朝鮮・中国でも流通しました。
明治四年五月十日の新貨条例は一円を純金一グラム半と定めましたが、開港場では銀貨が実際に使われつづけ、金貨と銀貨の二本立てで回っていきます。黄金だけを土台にした金本位の制度に立つのは、明治三十年のことです。
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約束を超えて刷られた紙
この銀行券は、券に記された重量の貨幣と交換するという約束を核としていました。しかし兌換できる金属の量をはるかに超えて刷られたとき、信用は崩壊し、フランスに一世紀の紙幣ぎらいを刻みます。

王の身代金から始まった国家財政
王の身代金として支払われた金貨エキュは、やがて戴冠した王の権威となり、戦争を終わらせるための税と富を動かしました。一枚の貨幣が、近代国家の骨格が組まれる時代の中心にありました。

書けば百文になる、という理屈
素材価値は一文銭の五、六枚分。けれど額面は百文。小判を思わせるこの楕円形の銭は、飢饉のさなかに生まれ、やがて国中の藩に模倣されてゆきます。